今でも記憶しているのだが、
小さい頃初めて覚えたひらがなは「の」だった。
母はよく居間にある大きなテーブルの上で片方に本を置きノートに書き物をしていて
わたしはその隣りで母のそれを見ていた。

この本の文中(意味の分からない線のような羅列の中)にどうも気になるのがある。
それが「の」だった。
漢字や他の平仮名の中で「の」だけが浮き出ているように見えて、
幼い目には母は定期的に現れる「の」を探しているようにも見えた。
勘違いしたわたしはすぐに文中の「の」を指差し、「の」を探している母に教えたし、その場で「の」をなぞった。

次の「の」の記憶ではわたしはペンを握って「の」を書いている。

持ち方も分からないペンというものを握りながらうまくそれを運転させる。
曲がり方を間違えればキャンパスをはみ出したし、
力の加減を間違えれば線は大きく横に逸れた。

わたしの「の」への信仰心はキャンパスだけにとどまらず、
至る所に「の」を描いたみたいだ。
食器棚や柱、玄関の戸、窓サッシ。
とにかく手当たり次第「の」を描いた。

今でも実家に帰ると大きな「の」が描かれた箇所がある。

わたしはそれを見る度「の」へ傾倒していたあの時期の記憶に帰れる。